都会ほど挨拶が少なくなってしまう理由
こんばんは。
前回、ブリスベンで生活していて感じたありがとうがもたらす幸せ について書きましたが、今回用事があってシドニーにきていて日本と同じような現象が起きていることに気がつきました。
ブリスベンではHello、Thank youが頻繁に聞こえてきたのにも関わらず、シドニーでは日本のバスの乗り降りと同じように言わない事が分かりました。
私はブリスベンでみんなが挨拶していたのを見て、てっきり
「オーストラリアに住んでいる人たち=挨拶をする人たち」
と決定づけていました。
しかし、実際には同じオーストラリアで一番都会と言われているシドニーでは、挨拶がブリスベンと比べて少ないことに気が付きました。
これを見たときに感じたのが、「都会ほど挨拶が少なくなっている」ということです。
私は祖母の実家がめちゃくちゃ田舎で、車ですれ違うときですら知らない人でもお辞儀します。笑
それ程、「そこに住んでいる人=ご近所さんの親戚」という認識があるのでみんな挨拶をします。
しかし、少し栄えているところに行くとそれが途端になくなります。
田舎に住んでいる人もすれ違う人にみんな挨拶はしないでしょう。
これってなんでだろうと考えたときに、とある共通のことに気が付きました。
それは、挨拶をしても帰ってこない空間、人で溢れてしまったということです。
具体的にどういうことかというと、例えばAさんがとある田舎に住む5歳の女の子だったとしましょう。
Aさんはまだ学校にも行っていなくて、近所で遊ぶ程度でしたがある日友達に誘われていつも遊んでいる場所ではない少し離れた都会に行くとします。
そのときに、知らないBさんに「こんにちは!」と挨拶をしたら帰ってきませんでした。
その次に通ったCさんにも挨拶をしましたが、返ってきませんでした。
そうなると、Aさんは「この場所で挨拶するのは間違っているんだ」という認識になり、今後田舎以外では挨拶をしなくなります。
こういったことが、現時点で沢山の場所で起こっていて、今ではそれが文化になっています。
今の事例は極端かもしれませんが、これは公共交通機関でも同じです。
いつも挨拶をしてくれる「オーストラリア人の運転手さん」には挨拶をするけど、「ほかの国の人は挨拶をあまりしてくれないから自分からしない」というケースも多いように思います。
これは差別でもなんでもなく、その国のたった1人の人の行動で「あそこの国の人は」という風に見られてしまうと言えます。
意外とこれは落とし穴だとは思うのですが、留学生、海外に行く旅行客の背中には「日本人」という肩書きがあったり、「学校名」という肩書きがあります。
だからと言って、どこに行くときも緊張しなさいとは言いませんが、あなた自身の行動がいつどこで見られてそれがどんな肩書きで見られているのかを再確認する必要がありますね!
というわけで、都会ほど挨拶が少なくなってしまう理由は周りの空気感、場所、人が自然に作り出しているものでした。
はるか